【鎌倉殿の13人】北条政子が死罪を命じていた?史実とは違う結末とは

 その態度、歴史書に伝えられる史実とは違っているのでは? 首をひねった視聴者も少なくなかったようだ。

 5月1日放送のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」第17回では、源頼朝(大泉洋)が逃亡した源義高(市川染五郎)の討伐を命じる「助命と宿命」と題したエピソードが描かれた。

 前回、平家を追い払って京に入った木曽義仲(青木崇高)だったが、京での作法を知らぬ振る舞いで後白河法皇(西田敏行)から疎んじられることに。さらに法皇を軟禁する暴挙に出たことから、頼朝は弟の源義経(菅田将暉)を送って義仲を討伐していた。

 その義仲の嫡男である義高は、鎌倉と木曽の和睦の証として頼朝の元に人質として送られ、頼朝と北条政子の長女である大姫(落井実結子)が許嫁となっていた。義高は大姫ばかりか母親の政子や叔母の実衣(宮澤エマ)からも気に入られていたが、頼朝が義仲を討ったことから、義高にとって頼朝は父親の仇となることに。将来の反乱を未然に防ぐため、頼朝は義高の首を刎ねるよう命じたのであった。

「その命令に政子は大反発し、弟の北条義時(小栗旬)らを巻き込んで、義高を伊豆大権現に匿うように仕向けます。だが義高は途中で逃げ出し、故郷の信濃に逃げ帰ろうとしました。しかし藤内光澄なる追手に見つかり、討ち取られてしまったのです」(歴史に詳しいライター)

 討伐の褒美がもらえると思っていた光澄だが、大姫や政子に突き上げられていた頼朝は義時に対して、光澄を死罪にするよう命じていた。義時に捕らえられた光澄は「なぜだー!」と絶叫しながら切り捨てられたのであった。

現在の埼玉県狭山市で討ち取られたと伝えられる源義高。トップ画像ともに©NHK

 義時は姉の政子に、光澄を切り捨てたと報告。政子は「殺せなどと言った覚えはありません」と狼狽していたが、義時は「姉上は決して許さぬと申された。鎌倉殿もそれを重く受け止められた」と諫めていた。この場面に、疑問を抱く視聴者も少なくなかったようだ。

「歴史書が伝えるところによると、義高の死を知った大姫は大いに嘆き悲しみ、病床に伏すことに。それを不憫に思った政子は、頼朝を押し切る形で光澄を獄門にかけたのです。ところがドラマでは政子が、死罪までは求めていなかったとトーンダウン。なぜここで史実を改変する必要があるのかと、視聴者が疑問を抱くのも無理はないでしょう」(前出・ライター)

 この「鎌倉殿の13人」ではほかにも史実と異なる描写が少なくない。たとえば頼朝の妾である亀の前(江口のりこ)は、頼朝が伊豆に流罪になっていた時にはすでに妾になっていたが、ドラマでは安房国に逃げた時に知り合った漁師の妻ということになっていた。

「本作の脚本を担当する三谷幸喜氏は『大河ドラマはまずドラマであるべき』との考えを公言しています。それゆえ史実をただなぞるのではなく、物語の展開に応じて脚色を入れているようです。今回の義高討伐に関しては、頼朝が光澄の死罪を義時にゆだねたことについて、義時の父・時政が『あの方は試しておられる、お前を。いや、北条を』と口にしたことがすべてを物語っています。この頼朝と義時の関係こそ、今回のエピソードで三谷氏が描きたかったものではないでしょうか」(前出・ライター)

 この「鎌倉殿の13人」で北条政子はかなり目立つ役柄ではあるものの、主役はあくまで北条義時だ。その物語においては政子でさえ、義時をよりドラマティックに描くための脇役に過ぎないのかもしれない。