【ちむどんどん】大城オーナーは暢子の大叔母なのか?その疑念を否定する根拠とは

 その紹介状に書いてあった文言に、驚いた視聴者も多かったようだ。

 5月19日放送のNHK連続テレビ小説「ちむどんどん」第29回では、ヒロインの比嘉暢子(黒島結菜)が東京・銀座のイタリア料理店で採用試験に合格する様子が描かれた。

 沖縄が本土に復帰した昭和47年5月に上京してきた暢子は、ひょんなことから横浜・鶴見で沖縄県人会の会長を務める平良三郎と知り合うことに。世話好きの三郎は料理人になりたいという暢子に、銀座「アッラ・フォンターナ」への紹介状を書いてくれた。

 同店オーナーの大城房子(原田美枝子)は沖縄に縁がありそうだが、採用に関しては出身地などは無関係との考え。暢子に料理作りの採用試験を課し、沖縄そばを作ることで見事合格した暢子は、「一生懸命頑張ります」と大喜びだ。そんな暢子と大城オーナーにはどうやら、浅からぬ因縁がありそうだという。

「暢子がそば作りに使った包丁は、亡き父・賢三(大森南朋)の形見。彫ってある名前を見た大城オーナーは思いつめたような表情を見せていました。そして終盤、三郎からの紹介状を開けると、そこには『比嘉さんは亡くなった比嘉賢三君の娘です』との一文。どうやら三郎も賢三のことを知っていたようで、大城オーナーはあまりの驚きに『まさかやー』とつい沖縄弁が漏れ出ていたのです」(テレビ誌ライター)

三郎が暢子にやたらと優しかったのも、賢三のことを知っていたからかもしれない。トップ画像ともに©NHK

 ここで視聴者が思い出したのは、まだ暢子が小五だったころに母親の優子(仲間由紀恵)が受け取った手紙だ。賢三が亡くなり、遺された借金がのしかかっていた比嘉家。そこに東京に住む賢三の叔母から、4きょうだいのうち一人を引き取ってもいいとの申し出が手紙で送られてきたのである。

 いったんは東京に行くことになったものの、最終的には沖縄に残ることを選んでいた暢子。その<賢三の叔母>が大城オーナーなのであれば、三郎が紹介状に「今さらかとは思いましたが」と書いていたのも納得だ。しかも顔の利く鶴見ではなく、わざわざ銀座のレストランを紹介したことにも合点がいくというものだろう。それゆえ視聴者から<東京のおばさんなのかな?>といった声が出るのも当然だ。

 だが過去のいきさつを振り返ると、大城オーナーが暢子の大叔母である可能性はほとんどないという。その根拠は、叔父の賢吉(石丸謙二郎)が明かしていたというのである。

「東京の叔母さんについて賢吉は、親の代に本土に移住した人だとし、『ウチら会ったこともないし親戚づきあいもしてないからねえ』と語っていました。それに加えて『その人は気難しくて金の亡者という噂さあ』とまで断言。たしかに大城オーナーは気難しそうですし、銀座でレストランを切り盛りするほどの手腕なら“金の亡者”に見えるかもしれません。しかし賢吉の説明には、叔母の係累であれば絶対に知っているはずの情報が欠けていたのです」(前出・テレビ誌ライター)

亡父・賢三と大城オーナーの関係性は、暢子の将来に大きく影響してきそうだ。©NHK

 その情報は、暢子が親友の前田早苗(高田夏帆)と一緒にアッレ・フォンターナを訪れた上京初日に明かされていた。早苗は女性誌に載っていたレストラン紹介ページを暢子に見せていたが、そこには大城オーナーの来歴が記載されていたのである。

 それによると彼女は「三十代半ばに在イタリア日本大使館で給仕をしていた経歴を持つ」とのこと。その時、日本でイタリア料理店を開くとの夢を抱き、現地で3年半修行してから帰国。銀座にアッレ・フォンターナをオープンしたという。

「大城オーナーがイタリアにいたのは昭和20~30年代のはず。その時代に海外で働くのは本当に特別なことであり、周りの人たちが知らないはずがありません。いくら親戚づきあいがなかった賢吉とは言え、気難しいといった噂は伝わっていたのですから、イタリア在住歴について言及しないのはあまりにも不自然です。そうなると賢三の叔母と大城オーナーは別人だと考えるのが合理的。そういった血縁関係とは別の部分で、賢三と大城オーナーは何らかの知り合いだったのではないでしょうか」(前出・テレビ誌ライター)

 暢子は、若かったころの賢三は鶴見で働いていたことがあるとも語っていた。その当時に大城オーナーと何かしらの関係があったのではないだろうか。その関係を知った上で三郎が暢子に紹介状を託したのは、二人の関係が悪くなかったことの証なのかもしれない。