【ちむどんどん】優子が涙ながらに語った思い出を台無しにした「昭和33年の沖縄に自衛隊」の記事!

 こんな大事な場面がまたもや「考証ミス」で台無しにされるとは、視聴者もさぞかしガッカリしたに違いないだろう。

 7月21日放送のNHK連続テレビ小説「ちむどんどん」第74回では、比嘉優子(仲間由紀恵)が子供たちに対して、賢三(大森南朋)と結婚したいきさつなどを涙ながらに語るシーンがハイライトとなった。その大事な場面にまたもや、ありえない「考証ミス」が見え隠れしていたという。

 那覇の食堂が実家だった優子は戦火の中、家族と離れ離れになり、弟と二人で洞窟に避難。そこで米軍に発見され、収容所に送られていた。そのさなかで弟は優子の腕に抱かれたまま短い生涯を終えていたことが、彼女の口から明かされたのだった。

 戦後、復員した賢三は家族を探すために沖縄に戻り、収容所にいた優子と再会。家族を失った優子は生きる気力を失っていたが、賢三は「家族の分まで幸せになれ。優子の心の中に優子の家族は生きている。家族の分まで幸せになってくれ」と説得。その言葉に優子は「この人と家族になりたい。二人で生きていきたい」と決心し、二人は結婚したのであった。

「やがて長男の賢秀を筆頭に良子、暢子、歌子と4人の子供に恵まれ、『嬉しかったねえ』と語った優子。しかし戦火の中ではぐれてしまった両親や姉の遺骨がどこかの山の中にあると思うとたまらない気持ちになっていたそうです。そんなある日、優子は新聞で遺骨収集活動に関する記事を発見。それは昭和33年に東洋新聞社の駆け出し記者だった田良島甚内(山中崇)が書いたもので、その記事をきっかけに優子と賢三は毎年、遺骨収集作業を手伝うようになったのです」(テレビ誌ライター)

 田良島は兄を沖縄戦で失っており、沖縄にかける想いは格別のものがあった。その想いがひとつの新聞記事を通して、優子に伝わっていたのである。

 そしていま、田良島の記事に触発された若手記者の青柳和彦(宮沢氷魚)が遺骨収集の現場を取材。その和彦に優子の娘でヒロインの比嘉暢子(黒島結菜)は想いを寄せており、運命が巡っている様を表していた。

 そんな優子の昔語りにより、彼女が毎年、行先も告げずにいなくなる日がある理由が判明。暢子ら子供たちは「話してくれてありがとう」と優子を抱きしめ、比嘉家の結束はまたひとつ強くなったのだった。

4きょうだい全員が成人してから初めて家族5人が揃った場で、優子は戦争の思い出を買ったのだが…。トップ画像ともに©NHK

 だがこのような感動的な回に、またもや「考証ミス」が潜んでいたのだった。それは優子が読んだ記事にあったという。

「そもそも優子が東洋新聞の記事を読む可能性はほとんどゼロです。沖縄の新聞市場は琉球新報と沖縄タイムスという二大県紙が独占しており、“朝毎読”の全国紙は専門の業者がわざわざ本土から空輸しているほど。昭和30年代の沖縄やんばる地方に住む優子が、全国紙の東洋新聞を目にすることなどありえないでしょう」(前出・テレビ誌ライター)

 そしてもう一つのミスは、優子が取り出した記事の切り抜きに潜んでいた。当該記事には昭和33年当時に存在しなかった「厚生労働省」の記述があり、第63回の初出時には大きく話題になったもの。そのため今回の放送では記事の半分ほどにボカシがかけられ、その部分が読めないように処理されていた。

 ところがこの記事にはもう一つ、重大な考証ミスが隠れていたのである。しかもその部分には今回もぎりぎりボカシがかかりきっていなかったのだ。

「それは記事の本文二段目の記述です。記事には民家裏の壕から五百発以上の未使用の銃弾と手りゅう弾五発が見つかったとあり、沖縄戦当時のものとみられるとのこと。そして記事は『通報を受けた自衛隊員が現場を訪れ、処理のため回収した』と続きます。しかし昭和33年の沖縄は米軍の施政下でしたから、自衛隊などいるはずもありません。これは沖縄の歴史に触れるドラマとしては、あってはならない致命的なミスではないでしょうか」(前出・テレビ誌ライター)

“厚生労働省”の記述はまだケアレスミスの範疇かもしれないが、さすがに「昭和33年の沖縄に自衛隊」という考証ミスは、あまりにもうかつすぎると糾弾されても致し方ないだろう。本作の制作陣は今からでも、作中に登場する新聞記事などのアイテムをすべて再確認すべきかもしれない。