【ちむどんどん】重子や和彦が時空を超えた?戦後闇市の描写にまたもや時代考証ミス!

 問題はいつでも簡単に解決され、ヒロインの希望はすべてが叶う。そんな世界では時空すら簡単に超越できるようだ。

 8月10日放送のNHK連続テレビ小説「ちむどんどん」第88回では、ヒロインの比嘉暢子(黒島結菜)と息子の結婚に猛反対していた青柳重子(鈴木保奈美)が、いとも簡単に心変わりし、披露宴を楽しみにする様子が描かれた。

 沖縄出身の暢子は新聞記者の青柳和彦(宮沢氷魚)と結婚の約束を交わすも、家柄の違いを理由に重子は大反対。「住む世界が違う」との考えは揺るがず、暢子のきょうだいが説得に訪れても、心はピクリとも動いていないはずだった。

 そんな重子のかたくなな心を溶かしたのは、東京・銀座のイタリア料理店「アッラ・フォンターナ」で働く暢子が丹精込めて作った「美味しくない料理」だったのである。

「フォンターナの大城房子オーナー(原田美枝子)は、戦後の闇市で身を興した人物。重子とは世代が近く、戦中戦後にどんなものを食べていたのか予想がついたのでしょう。房子の指示で暢子が作ったのは、魚肉ソーセージを使ったゼリー寄せ、進駐軍の放出品で作ったスープ、肉の代わりにくじらを揚げたミラノ風カツレツといった、戦後の闇市で出されていた食べ物を再現したものばかり。最後に提供した『特製の寿司』は米ではなくおからを使っており、刺身の代わりに野菜やこんにゃくを載せた代物でした」(テレビ誌ライター)

 それらの料理を口にした重子は「はあ、懐かしい。毎日おなかを空かせてた終戦直後の、お父さんとよく行った闇市の味」と感慨深そうな様子。涙を流しながら「お父さんが戦争から生きて帰ってきてくれた時、母さんは本当にうれしかった」と、夫婦仲が良かったころを思い出していた。

 やがて和彦が生まれ、「あなたを連れて3人で出かけては、まだこういう料理を食べていたわ」と、親子3人で楽しく食事をしていた当時を回顧。ひょっとしたら、あのころが人生で一番幸せだったのかもしれないと語っていたのだった。

 闇市料理を通じて、家族仲が良かったころを思い出した重子。不仲になった夫を病気で失い、息子とも疎遠になった彼女は、家族愛に飢えていたのだろう。だからこそ家族全員に愛されて育った暢子のことを受け入れようと、心変わりしたのかもしれない。

暢子が用意した闇市料理の数々に心を動かされる重子。トップ画像ともに©NHK

 だが、そんな感動的な場面に水を差す「考証ミス」がまたもや垣間見られたのである。それは青柳家の3人が、闇市から名前を変えたマーケットにて「特製の寿司」などを食しているシーンだったという。

「そのシーンでは子役で小1の石塚陸翔が和彦の子供時代を演じており、当時の和彦も小1前後という設定でしょう。すると和彦が昭和24年度生まれなことから、このシーンは昭和31年(1956年)ということになります。その時代にはすでに、おからを握った『特製寿司』などマーケットにもありませんでした。そもそも作中に出てきた露店風のマーケット自体、東京都内ではすでになくなっていました。どうやら子供時代の和彦は時空を超えた場所で、戦後まもないころの料理を食べていたようですね」(週刊誌記者)

 和彦が生まれたころにはまだ米の配給制度も続いていたが、昭和30年代に入るころには日本経済も大きく復活。昭和31年の経済白書には「もはや戦後ではない」と書かれ、当時の流行語になったものだ。

 歴史を振り返ると、昭和24年には東京でビアホールを含む飲食店の営業が解禁。昭和26年12月には東京都内の常設露店が廃止となり、闇市は姿を消していた。それゆえ作中では重子に「何年かして闇市はマーケットと名前を変えて」と語らせていたようだが、そのマーケットで闇市当時と変わらない料理が提供されていたという描写は、戦後を描くドラマとしては不適切ではないだろうか。

「そもそも実家が明治以来の実業家で、父親も銀行の重役という裕福な家に育ったにもかかわらず、重子が『私の実家もあのころはお金がなくて』と闇市当時を振り返っていたのも不自然な話。そこまで落ちぶれたなら、都内に大きな邸宅を構えているはずもありません。本作では結局、戦後の闇市やマーケットといった世相を『便利に使える記号』程度にしか捉えていないのでしょう。だからそれらの描写にリアリティが込められていないのです」(前出・週刊誌記者)

 昭和39年の中3当時から留学を視野に入れ、大学時代には実際に留学していた和彦。昭和31年にはマーケットで「特製の寿司」を食べていたのが、わずか8年で子供を留学させられるような裕福な家庭になったとでもいうのだろうか。

 どうやら今回のエピソードでは重子がいとも簡単に結婚を許したように、青柳家もいとも簡単に戦後の窮乏生活から脱出できたということのようだ。