まさかその話題を回収しないなんて、ありえない! そんな怒りがあちこちから噴出しているようだ。
NHK連続テレビ小説「ちむどんどん」が9月30日放送の第125回にて完結。舞台が令和の現代までたどり着き、ヒロインの青柳暢子(黒島結菜)ら比嘉家の四兄妹が多くの孫たちに恵まれている姿が描かれた。
最終回の前半では昭和60年(1985年)11月に、暢子の妹である砂川歌子(上白石萌歌)が原因不明の発熱で入院している様子を描写。瀕死の重体(©暢子)にある歌子の回復を願い、暢子らがやんばるの海で亡き父親の賢三(大森南朋)に向かって「お父ちゃ~ん! 歌子を助けてちょーだい!!」と叫んでいたのだった。
その甲斐あってか、場面が変わると時代は一気に令和へと移り変わり、暢子の料理店「やんばるちむどんどん」に四兄妹が集結。子供や孫たちも勢ぞろいして、四兄妹の母親・優子(仲間由紀恵)の誕生日を盛大にお祝いしていた。
「沖縄の本土復帰から50年の歴史を描くという触れ込みだった本作ですが、まさか平成をまるごとすっ飛ばすとは、とんでもない力技を発揮してくれたものだと視聴者もさぞやビックリしたことでしょう。それに加え、本作のかなり早い段階で示されていた伏線が最終回で回収されることを期待していた視聴者からは《我慢して最終回まで観たのに!》と、肩透かしにあったことへの怒りの声があがっていたのです」(テレビ誌ライター)
それは4月12日放送の第2回にて、賢三が語っていたセリフのことだ。暢子がまだ小5だったころ、東京から大学教授の青柳史彦(戸次重幸)が息子を連れて来沖。3カ月間の取材旅行を通じて比嘉家と交流を深めていった。
それがきっかけとなり、のちに暢子は史彦の息子である和彦(宮沢氷魚)と結婚したわけだが、その際に賢三が口にしたセリフの真意がいつになったら回収されるのか。視聴者は半年近くにもわたって待ち続けていたのである。
その第2回では賢三と史彦が戦時中の思い出について語らうことに。沖縄に将校として派遣されながら、沖縄戦の前に転地していた史彦は「今でも時々申し訳なく思うことがあります。生き残ってしまったことを」と悔やんでいる様子だった。
そして賢三は「自分は中国をあっちこっち」と中国戦線に従軍していた過去を明かしたうえで、「自分も生きている限り、謝り続けないといけないと思っています」と語っていたのである。
「このセリフに視聴者は、賢三が謝り続けなければいけないこととは一体何だったのかと、疑問を抱いていました。本作では戦争中の体験について登場人物が涙ながらに語る場面が何カ所もあり、賢三についても何かしらの回想シーンが映し出されるものだと、視聴者は信じていたのです」(前出・テレビ誌ライター)
たとえば優子は、沖縄戦で逃げ惑っている最中に、両親や姉の時恵とはぐれてしまったことを悔いていた。弟の秀夫とは一緒に逃げたものの、栄養失調と思われる衰弱で亡くなったと告白。独りぼっちになるなか、収容所に賢三が迎えに来た思い出が回想シーンできっちりと描かれていたのである。
和彦の取材相手であり、遺骨収集作業に携わっている嘉手苅源次(津嘉山正種)は、沖縄戦で逃げまどう最中に出会った女の子と手を離してしまい、その子が亡くなってしまった体験を告白して慟哭。最終週に登場した大里五郎(草刈正雄)は、米軍の機銃掃射で瀕死の重傷を負った時恵(優子の姉)の最期を看取ったことを明かしつつ、水を飲みたがる時恵に自分の水を分けてあげなかったことに「ごめんなさい」と涙を流しながら謝罪していた。
「そういった回想シーンが示されるなか、賢三が『謝り続けないといけない』と胸に刻んでいる出来事とは何なのか、視聴者もどこかのタイミングで明かされるものだとばかり思っていたのです。ところが結局、その内容が明かされることはなく、視聴者の心には疑問だけが残されることとなりました。さすがにこの“未回収”は、ドラマとしてあまりにお粗末ではないでしょうか」(前出・テレビ誌ライター)
そもそも最後まで歌子(上白石萌歌)を苦しめた「謎の病気」にしろ、命を奪いかねないほどの重症だったにも関わらず、病名も症状名も明かされないままだった。しかも暢子らの祈りが通じて奇跡的な回復を果たしてからは、最終回で「この10年風邪もひいてないよ」と明かしたほどの健康体に。通常なら「〇〇症候群」など何かしらの病名が付くはずだが、それをあえて正体不明のままにしたのは、物語を描く側にとって都合が良かったからなのかもしれない。
ともあれ全125回を通じて本作では、沖縄の本土復帰50年を描くこともなければ、比嘉家四兄妹の「笑いと涙の家族物語」も不完全燃焼に終わっていた。ヒロイン暢子の破綻したキャラ設定と、時代や料理などあらゆる考証を軽視した雑すぎる脚本は今後、「史上最悪の朝ドラ」として朝ドラファンの記憶に残り続けるに違いない。